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    「をかしな男だな」

    「さうだつてねえ」

    が、それもこれも一週聞か十日たつうちには、たちまち漠とした過去の中に滑りこんでしまひ、目立たなくなり、ぼやけ、遠のき、ふたゝびあの河原町特有の単調さがあたりを支配し、だるげな瀬のどよめきが耳につき、季節の曖昧な足どりが現れ――或る日はさらさらいふかすかな音を立てて雨が通りすぎ、曇つて何となく冷え、急にぱつと日ざしが輝き、又冷え――そして、年ごとに絶えず繰り返へされながら絶えず或る新しさを持つて、慣れることのない、捉まることのない冬が、底冷えと疾はやいおびたゞしい雪もよひの断雲と刺すやうな寒風とを伴つてやつて来た。

    房一は来意を告げた。やがて、軽い足どりが聞えたので、さつきの看護婦だとばかり思つて目を上げた房一の前に、頭髪の真白な、稍やや猫背の、ぎよろりとした眼つきの老人が立つていた。一瞬、房一はこの老医師と目を合はせた。何か剥むき出しな、噛みつくやうな眼が房一をぢつと見下していた。が、次の瞬間には、それとはおよそ反対な気軽るな声が、

    「捕虜が内地へ送られるさうだよ」

    そして、これと全く同じ活気が、あの燃え残りの蝋燭の発する佗びしい、だが、ゆらめくやうな活気が今夜の法事で主人役をつとめている神原直造にもあつた。

    例の奉祝行列のお終ひに小谷から慰労宴をやらうと云はれたときに、房一は道平が練吉の診察を受けたまゝになつているのを気にかけていたことを思ひ出し、練吉をも加へて小谷と二人を招待しようと云つたのだが、小谷はそれはそれ、これはこれと云つて聞き入れなかつたので、改めて今二人を料亭染田屋に招いたのであつた。

    たしかに、一年余りといふ年月は経過した。それは暦の上でもはつきり現れているし、房一の身辺でも紛まがふことなく通過した。たしかにいろんなことが、予期したことも予期しないことも起つた。それにもかゝはらず、そこには何か了解しがたいものがあり、一口に一年といつてしまふにはあまりにはみ出たものがうようよして感じられるのであつた。これにくらべれば、彼が開業のはじめに空想したさまざまのことは、あの医師高間房一としてこの町にしつかりと根を生やすといふことは、どんなに小さくどんなに単純なものだつたらう。いや、彼の空想は着々として実現していた。何故なら、どこにも医師高間房一としての失敗は認められなかつたから。それでもなほ、彼の前もつて考へたことは、起つたことにくらべればとるにも足りないものだつた、といふ感じを抱かざるを得なかつた。そこには何か大きなものが、大きくつて親しい、落ちついたものが現れているやうに思はれた。

    その何番はわたしの隣室で、当分お客を入れないといったのも無理はない。そこは幽霊(?)に貸切りになっているらしい。宿へ帰ると、私はすぐに隣座敷をのぞきに行った。夏のことであるが、人のいない座敷の障子は閉めてある。その障子をあけて窺うかがったが、別に眼につくような異状もなかった。

    今それを思ひ浮べたとき、房一はふいに一種の怒気を感じた。それは疾やましさのないはげしい敵意、何かしらぐつと相手を地面まで押しつぶしてしまひたいほどの、腹の底からこみ上げて来る得体のしれない力だつた。

    だが、房一よりも堂本の方がもつと慌てていた。彼はいきなりそこに痩せた身体をしやちこ張らせてかしこまると、

    正文は練吉を附属病院から引かせて家へ連れもどつた。そして、大急ぎで第二の嫁を迎へた。多分、流石さすがに親に迷惑をかけ過ぎたと気づいたのだらう、練吉は温和おとなしく帰国することにも同意したし、何もかも親任せだといふ態度を見せた。見合ひのために、正文夫婦とつれ立つて隣県の市へ赴おもむきもした。ところが、結婚式が済んで十日もたゝぬうちに、練吉は二度目の妻がどうしても嫌だと云ひ出した。そして、頻々と家を明けた。近くの町の料理屋で流連いつゞけするのである。正文は激怒した。だが正文が恰好をつけるに急で、慌てて結婚の話を進めたと同様に、相手の方でも何か過失があつて結婚を急いでいたらしい。そして、この嫁もあまり出来はよくないらしく、正文の家の悪口を手紙に書いて実家に出した。たまたまその一通を練吉に托したところから、中味がばれ、正文は直ちに彼女を実家へ帰した。しかし結局は練吉の云ふなりになつた形である。

    「今日はほんの御挨拶に上つたので、いづれ又ゆつくり――」

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